発信者としての倫理観について

発信者としての倫理観

先日、有名な俳優さんが亡くなるというニュースが流れ、ネット上でもファンだけでなく多くの方が驚きをもって受け止めていました。彼のファンやそうでない方も含め、多くの方が哀悼の意を示す中、『倫理観の欠如した』発信者がいたことをご存じでしょうか。

本記事では、ブログやSNSなどでの発信者として守るべき「倫理観」について、私の考えを書いていきます。

※ 本記事は筆者の個人的な考えを述べたもので、特定の個人を誹謗中傷するものではありません。

倫理観の欠如した発信

このニュースが出たのち、ネット上では彼の名前がトレンド入りし、多くの注目を集めていました。そんな中、いわゆる「トレンド記事」として、彼の名前を使ってPV集めをする「倫理観の欠如した」発信者が何人もいました。

人の死を悼みながらアフィリエイトへ誘導する

「○○さんが亡くなってショックです。○○さんの主演ドラマ映画をまとめました」とTwitterで記事へリンク⇒ U-○EXTなどのアフィリエイトリンクへ誘導。この手のツイートをいくつか目にしました。

そのツイートをしたブロガーさんの記事を読んでみましたが、追悼のための記事ではなく、ただただ「彼の名前」を使ってPVやアフィリエイト成約を稼ぐ典型的なトレンド記事でした。

本人の関係者を騙った動画投稿

本人、または本人の関係者を騙りYouTubeに投稿された動画もありました。

「○○です、実は生きています」というのが一番衝撃的でしたが、不適切と判断されたのか動画はすぐに削除されていました。

これらの動画も、アフィリエイト記事と同様に追悼の意などなく、ただ自分の利益(PV集めなど)しか考えていないものに感じます。

利益を得るより大きなものを失う

上記のような記事・動画に触れ、私は不快な気持ちになりました。それはおそらく、私が同じことを思い付いても絶対に発信しないような内容であり、「私のもつ倫理観では」許容できないものだったからだと思います。

この記事を書いていたブロガーは、私の中で「信じてはいけない対象」となりました。また、件の記事を貼ったツイートは「いいね」がゼロという状況だったので、やはり多くの方に「許容できない・興味のない内容である」と判断されたのでしょう。

倫理観の欠如したアフィリエイト記事を出すことで、他者からの信用を失った(得られなかった)と言えるでしょう。

個人メディアには規制が少ない

今回のようなブログ記事(動画)も、テレビや新聞のゴシップニュースも、「如何にしてユーザーの関心を引きPV・視聴率・購読を増やすか」という点で根っこは同じだと私は思っています。多くの人に読んでもらう目的で、時として人の不幸をセンセーショナルに扱い関心を誘うこともあるでしょう。

しかし、テレビなどメディアには業界のルールや第三者の監視機関があり、道を外れれば修正を促す仕組みがあります(機能しているかは別として)。

詳しく伝えすぎると、自殺を模倣する人が増えてしまうことなどの問題が海外の研究などで明らかになっている。そのためそういう詳しい伝え方をしてはいけないなど、自殺報道にあたって注意すべきことがある、ということをWHO(世界保健機関)もガイドラインを作ってメディア側に要請し、この10年あまり日本政府も自殺防止の観点で同じ姿勢でこれを推進している。

三浦春馬さん「自殺」でテレビ報道の”ガイドライン違反”が続々!」より

しかし、ブログなどの個人メディアには、そういったルールや仕組みはなく、「発信者自身の倫理」しか歯止めになるものがありません。倫理が曖昧なまま情報を発信してしまえば、多くの人をが不快に思う記事・動画だど気付かずに、自身の信用を失うことに繋がります。

では、この「倫理」とは、どうあるべきなのでしょうか。

倫理の境界線

そもそも、「倫理」という言葉を調べると、以下のように定義されています。

人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。「倫理にもとる行為」「倫理観」「政治倫理」

goo国語辞書「倫理」より

倫理、道徳、モラルなど、言葉は違えど「人として正しい道や行い」という意味合いです。しかし、これらの判断基準はその人の中にしか存在せず、可視化することは出来ません。また、倫理観は判断基準となりますが、強制力はないという点で「法規制」とは異なります。

この①可視化できない、②強制力がない、という点が、「倫理の境界線」を曖昧にしてしまうと私は考えています。可視化できないからこそ、どこまでが善でどこからが悪なのか人それぞれです。強制力がないからこそ、どこに線引きをすれば良いのか学ぶことが難しいのです。前述した『倫理観の欠如した』人の行動も、その人の中では倫理の境界線を越えない行動だったのかもしれません。

倫理観を養うには

この曖昧な「境界線」を全体平均に近づける、すなわち倫理観を養うには、『健全な社会生活』を送ることが必要だと私は考えています。

倫理の境界、善悪を判断するには基準がなければいけません。この「基準」は、主にあなたが心を置いているコミュニティー内でこそ育まれます。そのコミュニティーは家庭や学校、あるいは会社組織かもしれません。そして、まともなコミュニティーであれば、その善悪の境界線=倫理観は世間一般と近いものになっていると思います。

逆説的に、このコミュニティーが持つ「基準」が全体平均からかけ離れていたり、そもそもコミュニティーに所属していないと、境界線の引き方が世間一般からかけ離れるのではないでしょうか。

発信者としての倫理

私たち個人の発信者は、企業メディアのようにルールやしがらみに縛られることは少なく、それが強みでもあります。Twitterなどでも「個人ブログの強みは企業メディアでは言えないことを忖度なく発信できること」と言うブロガーもいます。

しかし、「縛られていない」ということと「何でも発信して良い」というのは本当に同じことでしょうか。私たち個人の発信者にも、自身の出した記事・動画・ツイート・インスタグラムなどへの責任があります。発信内容が誰かを誹謗中傷するものであれば訴えられることもありますし、法的に問題がなくても内容によっては「信用」を失うことになるでしょう。

企業メディアと私たち個人メディアは規模が違うだけで、「倫理」という観点で見ればその倫理的責任は同じだと私は思います。そして、縛られていない分だけ、個人メディアの方が倫理についてセンシティブになるべきではないでしょうか。

インターネット上に発信した記事・動画は、あなたの考えや気持ちを代弁する言葉です。投稿ボタンを押す前に、誤字脱字や文章構成だけでなく「この記事は誰かを不快にさせないだろうか」という目でも記事を見直してみてはどうでしょうか。

コメント